鶴見花月園(その2)

 京浜急行花月園前駅の西側、東海道本線の線路を挟んで小高い山上に、花月園・競輪場が平成22年(2010)まであったが、戦前・戦後直後までこの場所には、子どものための遊園地「花月園」が存在した。

 この遊園地は、平岡廣高によって大正3年(1914)5月に開園した。平岡は、会津からの落ち武者や同志関係者の隠れ家として創業した東京・新橋の老舗料亭「花月楼」の経営者だった。「花月楼」は西郷隆盛木戸孝允大久保利通伊藤博文らをはじめとする明治維新関係者や政治家、渋沢栄一(第一銀行他企業多数)、大倉喜八郎(帝国ホテル)、浅野総一郎浅野セメント)や平岡熙(日本最初の民間鉄道車両工場)などの実業家などが常連客として利用していたという。

 遊園地は一時大変賑わったものの、関東大震災や昭和初期の不況により、その経営は京浜電気鉄道大日本麦酒との合同経営に移り、戦時中一時休園し、戦後昭和21年(1946)に復活したが、昭和25年(1950)には競輪場が建設されることになり、惜しくも閉園した。

 園内は公園をはじめ、サークリングウエーブや豆汽車など、多くの設備が置かれ、チルドレンパークとして大変賑わったという。

 花月園の開園者である平岡廣高はその若き頃、柳橋や洲崎、日本橋を遊び廻る道楽者であったが、料亭の若旦那として新橋の老舗「花月楼」の経営には熱心で、その甲斐あってか、店は大変繫盛したという。

 平岡が50歳の頃、その当時は工事中だった大正3年(1914)開業の東京駅に食堂の出店を計画し、当時の逓信大臣である後藤新平(当時の国鉄逓信省の管轄であった)に依頼したが、「日本料理だけでは・・・・・・」と言われたので、欧州へ西洋料理見学の旅に出かけた。その際、たまたま知人の画家に連れられて行ったパリ郊外の子ども遊園地を見て、そこでの設備に感激、日本国内で子どものための遊園地を開こうと思い立ったという。

 遊園地の適地を探し、全国を物色してたどりついたのが鶴見の地で、古来より子育て観音として信仰を集めていた、東福寺の地所であった。東福寺は、平安時代後期、堀河天皇が勅使を送って皇子の誕生を祈願し、のちの鳥羽天皇となる皇子を授かったとされる寺である。

 「子どもの遊園地と子育観音とは引き合わせが良い」と、この東福寺の住職を説得して2万5000坪(8万2500㎡)の土地を借り受け、同地に「花月園」が誕生することとなった。

 人気も出て繁盛し、敷地は広がっていったが、子どもが好きな平岡は、利益のほとんどを常に新しい設備を必要とする遊園地のために投資を続けたことと、関東大震災、他の遊園地の開園や不況により遊園地経営が困難となり、昭和7年(1952)12月、景品電気鉄道と大日本麦酒による共同経営会社に、やむなくその権利を渡すこととなったのである。

 平岡は園主の座から退いた後、園内の釈迦と観音堂の堂守として信仰に生き、また児童の善導に尽くして昭和9年(1934)1月、花月園内和楽荘にて75年の生涯を閉じた。(宮田憲誠『京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線』JTBパブリッシング 2015年)

花月楼女将(その4)渡欧

 巴里は七月の中頃から曇天と微雨とが続いて秋の末方の様な冷気に誰も冬衣を着けて居る。此陰鬱な天候に加へて諒闇の中に居る自分達は一層気が滅入る許りである。御大葬の済む迄は御遠慮したいと思ふので芝居へも行かない。独逸から和蘭へかけて旅行しようと思ふが雨天の為に其れも延び勝ちである。
 和田三造さんから切符を貰つたので巴里の髑髏洞を一昨日の土曜日に観に行つた。予め市庁へ願つて置くと毎月一日と土曜日と丈に観ることが許されるのである。自分は一体さう云ふ不気味な処を見たくない。平生から骨董がかつた物に余り興味を持つてない自分は、況して自分の生活と全く交渉の無い地下の髑髏などは猶更観たくないが、好奇心の多い、何物でも異つた物は見逃すまいとする良人から「自動車を驕るから」などと誘かされて下宿を出た。零時半の開門の時間まで横町の角の店前で午飯を取つて待つて居ると、見物人が自動車や馬車で次第に髑髏洞の門前に集つて来た。中に厚紙の台に木の柄を附けて蝋燭を立てた手燭を売る老爺が一人混つて居る。見物人は皆其れを争つて買ふのである。其内に和田三造さんと大隅さんとが平岡氏夫婦を案内して馬車を下りるのが見えた。自分達もレスタウランを出て皆さんと一緒に成つた。(後略)

与謝野晶子「髑髏洞(カタコンブ)」与謝野鉄幹・晶子『巴里にて』)

花月華壇(その4)

 向島花月花壇でのこと

 

 向島花月花壇を造ったのは、後に鶴見の花月園を造った平岡広高(私の父の兄)である。何でも新しい事を考える人で、花を造り、馬車で切り花を街へ売りに行ったりした。その当時の日本では今のように過程で花を飾ったりしなかったので失敗したらしい。

 新橋の店は、本妻がやってて、夏場のお客を呼ぶためらしかった。日本料理は父が受け持ちで床の高い日本家屋、私達の家族(父母、兄二人と私)は奥に別に住居があり、広高の二号の池田咲さん、(私の異母兄の)平岡権八郎とその子供の雪さん(私より一歳上で、池田の小母が藁の上から育てた)が住んでいた。

 西洋料理の方は洋館で、ダンスのできる広いホールがあった。台風で隅田川が氾濫した時は庭に水が流れ込み、兄たちはボートを押したり、泳いだりしていた。低い方の家

の人たちは高床の日本家屋の方へ移った。(木村満瀬『昔の音 今の音』展望社 平成11年)

 

鶴見花月園

平岡廣高氏

    鶴見町

 曰く絶対に株式或は合資にせず曰く決して之れを子孫に継承せしめず曰く挙げて民衆の共有遊園地たらしむ此三大信条を厳守して死して已むの勇気を鼓しつゝ日々二百有余の従業員と共に活動しつゝある人こそ鶴見の花月園花月園の鶴見かと謳はるゝ花月園得甫平岡廣高氏とす氏は明治四五年其経営する東京随一の旗亭花月を令息権八郎氏に譲り夫人静子と欧米漫遊の途に上り各国を歴遊する中偶々仏国巴里の郊外に於て児童を主とする遊園地を観て心大に動き我国にも創設の必要を痛感し帰来早々京浜附近より箱根方面に亙り適当の地を物色中図らず鶴見に着目し総持寺に交渉せるも不調に終り更に人を介して現在の東福寺に交渉の結果同寺の本尊子育観音を世に出すを第一の条件とし三十ヶ年の地上権を獲得し当時草茫々たる山野に始めて鋤を入れ苦心惨憺の結果大正三年五月鶴見花月園命名して児童本位の遊園地の実現を見るに至り爾来星霜を経る事十六年間一意専心努力の苦心空しからず一ヶ年間の入園客数優に二百万を超過するの盛況に達す其間に於ける氏夫妻の辛労は未明に床を蹴つて先ず園内鎮座の大入弁財天に詣し七万坪に余る園内を一巡して朝養を取り八時半事務所に出勤し終日執務の傍ら業務全般に亙つて采配を振ひ日没退出するを例とす精力の絶倫体力の旺盛なる壮者をして後に憧若たらしむるものあり夫人静子女史亦現代女傑の一人たり氏(ママ)が後半生の成功の半ばは静子夫人内助の功に依り且つ益々内助の功に俟つべきもの多き事は疑を容れず夫人の存在は氏に取つて虎に翼と謂ふべし。(『神奈川県紳士録』横浜市誌編纂所 昭和5年

花月楼女将(その3)

平岡静子(ひらおか・しずこ) 事業家  1876(明治9)年3月~不詳

 花月園を支えて斬新なセンス

 花月園競輪場のある横浜鶴見の丘陵一帯には、かつて、東洋一を誇るテーマパークがあった。経営は新橋で料亭花月楼を営む平岡広高。静子はその妻である。

 平岡静子の出生は不明だが、「もとラシャメンで、横浜の自転車芸者」(『銀座の米田屋洋服店』)だったとも、横浜尾上町の料亭富貴楼のお倉に仕込まれた芸者だったとも言われる。新橋の売れっ子芸者で鳴らしていたとき広高の後妻に迎えられ、傾きかけていた花月楼は、「お座敷に出ると芸者が手持ち無沙汰になるくらい、客あしらいの上手な女将」(前掲書)の力量で持ち直した。

 夫の広高は当時建設中の東京駅舎内のレストランの経営に着目。一九一二(明治四五)年五月から五か月間、西洋料理の視察のため静子同伴で、ロシア、イギリス、フランスなどヨーロッパの七か国をまわった。パリでは与謝野鉄幹・晶子夫妻、広高の息子・権八郎の絵描き仲間らと出会い、いっしょに食事をしている。

 この旅行で、広高はパリの子ども遊園地に魅了され、帰国後、花月園開園に向けて奔走する。一方、静子はフランスで化粧法と化粧品の製造を学び、帰国するとただちに「仏国化粧料洗粉」を製造、新橋平岡花月堂の名で発売した。「洋行帰りの女将」の評判は新聞にも取りあげられ、自ら広告塔になって宣伝に努めた。

 鶴見花月園は一四(大正三)年五月開園。敷地は東福寺の境内地七万坪。遊園施設や観覧物の多くは欧風の斬新な機器が取り入れられた。園内には動物園、数千人が入る野外劇場、スワンボートを浮かべた弁天池、ホテル、貸し別荘が造られた。また二〇年には日本で最初の本格的な営業ダンスホールを開き、その舞踏教師としてロシアのバレリーナエリアナ・パヴロバと妹のナデジタを迎えるなど静子のアイデアとセンスが随所に光り、新しもの好きの芸術家、作家などがこぞって来園した。

 お伽話や童話の舞踏劇を取り込んだ花月園少女歌劇は評判で、子どもたちのあこがれの的だった。園内の児童絵画展に並べる海外の子どもたちの作品収集のため静子は数回にわたって渡欧。来園する外国の要人の通訳や案内役も買って出て、その評判も上々だった。化粧品と着こなし、髪形、自ら考案した小物を紹介した『上品でいきな化粧の秘訣』を出版し、「おしゃれ教室」も園内で開催している。だが、開園一五年、結婚二五周年を迎える前年ころに離婚。二九(昭和四)年、東京赤坂の溜池にダンスホール・フロリダを開業するが、そこもほどなく手放し、その後の消息は詳らかでない。(山辺恵巳子) (江刺昭子+史の会編著『時代を拓いた女たち 第Ⅱ集 かながわの111人』神奈川新聞社 2011年)

 

新橋花月楼(その6)三井

(二)

 火吹達摩も尻が暖れば湯気を吹く。豈夫れ三井家の奉公人のみ懐中暖りて気を持たずに我慢がならうか。重役と云はず使用人と云はず、相当々々の制札は何時か踏折り、衣食住は不相当に贅沢を尽し、娯楽は不相当に度を過し、貯蓄は不相当に太くなつた。吝なものもある。神妙なものもある。溜らないのもある。が、大概な処迄は有頂天に浮いて騒いだ。新橋の花月は其時に新しい普請が出来た。三井銀行から融通した三万円は、返つたとも返らぬでもなく棒引きになつた。いかな晩でも花月には三井の人の馬鹿騒ぎが幾組も天井を抜いた。自然白粉の匂も嗅分け、花札の裏も読むと云ふ大変な団栗が新道の溝板を転げ合つた。中上川彦次郎其人が既に大百四天満を引いては六方を踏んで月落ちての御帰宅とあるから溜まらない。皆テンデだらしかなかつた。昼は銀行にも物産にも四角な顔三角な眼が忙しく動き、斯業界のお手本は揃つて居るが、夜は行当りばつたりに右の始末、下地は好きな三井家主人側の旦那方、下を見倣ふ逆縁ながらと得手に帆を揚げた騒動だ。過般物故した三郎助が遠見に苦り切つて茶を立てて居たのが、いかにも是ならば三井家の御主人筋と見受けられた外には、誰も彼も氳気に中つた顔の伸びやう、潮合を乗過して、内田山から閉門の差紙をつけられたのも二三人、三井家の上下滔々として歌吹の海に巻込まれて仕舞つた。(実業之世界社編『三井と三菱』実業之世界社 大正2年

花月楼女将(その2)

 「花月」の女将は、中之町(今の芭蕉庵の家)の印判屋、河野元介の娘で、附属小学校に通ってる頃から、その美貌と才気が評判になってた。殊に舞が上手で、妹の「お花」(多分)さんとの合舞は、エライ人気で、河野の姉妹が演るというと、どこに舞浚(温習会)でも大入満員だった、とよく聞かされたものだった。

 明治二十六年の中之町の大火事が、躓きの始まりで、する事なす事思うに任せず、水晶彫りの名人と言われた河野元介も、夜逃げ同様の姿で、岡山を去って行かねばならなかった。例によって、「芸が身を助ける不仕合せ」から、河野の「お静」さんも、煉瓦地から「静香」と名乗って現われたのである。美しいばかりか若いのに似合わず「口上手」で、まるで「智慧の凝固」のようだ、などと、店出しの日から高評サクサクの滑りだしだった。

 その内、新橋随一の宴会場だった「花月」の経営が、どうした事かうまくゆかないので、検番の幹部連中も、其の復活に腐心して最中、誰言うともなしに、「静香さんなら、大丈夫」という動議が出されて衆議一決、否応なしに「花月」の女将に推薦され、平岡夫人に納まることとなった。

 その後の、お静さんの働きは、期待を裏切るどころか、予期以上の成功を見せ、鶴見の「花月園」にまで発展したものである。かつて、其の花月園に遊んだ時、中央に在った「花月大明神」の鳥居と玉垣に、「岡山中之町」と刻んだ文字を発見し、よく見ると糸屋の伊藤佐太郎君や舶来店の佐藤喜平君などの、幼な馴染の顔触れから、同窓同級の西尾元太郎君、等々、思い出の名前がならんでるのには目を瞠った。遉は、名代の花月の女将、昔を忘れず、是等の人達と交際ってたか・・・・・・豪い、と感心させられたことがある。(『続おかやま風土記』岡長平「女はすべて美人なり」日本文教出版 昭和32年

花月楼女将

 明治初期から中期にかけて、羽振りがよく、而かも、よく気がつき、人情に厚く、評判のよかつたマダムと云へば、久保町の賣茶の女将であつた。全く彼女は、稀れに見る厳格な女性で、小言もよく云つたが、しかし、その半面には、又とてもよく気がつき、人情厚くもあつたので、その頃の彼女の人気は素晴らしいものであつた。これと殆ど、正反対な女将として、評判を博してゐたのが、花月楼のマダムであつた。本当に彼女は、女性としては、不思議な位ひ鷹揚で、女中たちや、藝妓たちに、どんな大きな過失があらうとも、文句ひとつ云はないと云ふ鷹揚さであつたから、彼女をとり巻く女性の中には、可なり悪辣なことをやつたものもないではない。が、しかし、それを知りながら、故意を、小言を云はない處に、彼女の評判は高かつた訳けである。

 事実、彼女は、男優りの性格で、こせつくことが大の禁物だつた。そんな訳けで、好景気の時代など、湧いて来る程儲かつた金を何んの躊躇もなくばら撒いた程の彼女でもあつた。最も主人の平岡氏は、彼女以上の鷹揚さであつた。(石角春之助『銀座女譚』丸之内出版社 昭和10年

 菅野の下で2年5ヶ月の旗手修行を積んだ尾形が独立したのは、明治44年の1月1日である。元旦を期して多賀厩舎に迎えられた。

 この多賀厩舎は目黒にあって、多賀一、平岡広高、多賀半蔵の三兄弟によるHクラブが運営していた。

 長男の一は、宮内省主馬寮に40年にわたってつとめることになる。当時は明治天皇のお召場所の馭者であった。といっても、新橋烏森で「湖月」という一流料亭を経営する資産家である。

 他の二人も同様で、次男の広高は鶴見に「花月園」を、末弟の半蔵は明治座の裏の采女町に「わかな」を持っていた。

 (略)

 信心深い多賀夫人のすすめ従って、尾形は藤吉を景造に改名した。昭和23年、国営競馬に改組されて、戸籍名の使用が義務づけられるまで、彼は尾形景造で通した。

 年号の方も明治から大正に改まって、4月の秋競馬のことである。平岡広高が花月園の経営上、資金を必要としていて、持馬のトクホを聯合二哩に使いたいと言い出した。

 そのころの聯合二哩といえば、1着賞金が3000円の大レースで、優勝競争の1・2着でなければ出走権が与えられなかった。

 ちょうどそのとき、トクホは向うゾエを出していて、それほどの競争に仕える状態にはなく尾形は苦慮した。

 トクホはインタグリオーにフェアペギーで、小岩井の産である。明治24年、小野義真、岩崎弥之助男爵、井上勝子爵の共同経営で始まったこの農場は、三人の頭文字を一つずつとって命名されたことで知られているが、その後明治32年に岩崎家の所有するところとなった。

 尾形が三歳のトクホを引き取りに行ったのは大正3年の12月である。

 盛岡駅前の高与旅館に投宿すると、先輩の北郷五郎が、やはり小岩井産の四歳馬ミツイワヰを、引き取りに来ていた。

 平岡のたってのねがいで、聯合二哩への出走に踏み切ったトクホの前に立ちふさがったのが、このミツイワヰである。

 小岩井の馬は一般にやわらかく、四歳の秋か五歳の春でなければ使えない、というのが常識であった。トクホはまだ馬が若く、そのうえに向うゾエのハンデイキャップを抱えている。対照的にミツイワヰの充実ぶりは顕著で、衆目の見るところ、聯合二哩の本命はこれであった。

 ある日のこと、尾形は自分に関する噂を小耳にはさんだ。北郷の師匠である高橋孔照が、尾形を未熟者として批判していたというのである。

 その夜、寝床に入った尾形は、どうにも眠れない。ふとんを蹴って起き上ると、自宅から六、七丁ほどのところにある馬頭観音に向かった。

 持前の反撥心に火がついたのである。こうなったからには、神の力を借りてでも汚名をそそがなければならない。そう考えた尾形は三七、二十一日間の茶断ち、塩断ちを誓って、願をかけた。

 (略)

 茶を断つのは、何ほどのこともない。しかし、塩断ちは、人体に影響を及ぼす。十三貫五百あった体重が十二貫二百にまでなった。身を以て塩分の大切さを知った尾形は、戦中、戦後の物資不足の折り、馬のための塩の確保に労を惜しまなかった。

 聯合二哩を1週間後に控えた11月20日、内国産馬1800メートルでミツイワヰを4馬身差の2着に退けて優勝したトクホは、本番の出走権を獲得する。

 その日、満願を迎えた尾形は、さらに茶断ち、塩断ちを続け、馬頭観音詣でをやめない。レース当日まで都合28日間の願かけとなった。

 そして11月27日、トクホはまたミツイワヰを4馬身差の2着に葬って、聯合二哩に優勝したのである。(本田靖春「にっぽん競馬人脈」 中央競馬ピーアール・センター編『日本の騎手』 中央競馬ピーアール・センター 昭和56年)

花月華壇(その3)成金鈴久

 彼れは新橋花月主人が窮状を訴ふるに及ぶや、直ちに向島花月華壇を希望値段の二万円にて買入れ、一万円の手入をなして肥馬軽車を備へ、三十人を一時に為し得るの善美を尽した欧風食堂をも設け、料理人三四人を置き二六時中訪問来者の来り食事するに任せた。(剣介閣「成金元祖鈴久物語(上) 「日本之関門」大正6年10月号 瞬報社出版部)

 

神田小川町の某書肆、久しく朝鮮版朱子大全を蔵す。頃者金に窮し急に之を売らんことを思ひ、店頭に大立札を掲げ、朝鮮古版朱子大全値千金と曰ふ。斯くの如くして待つこと数日、偶々成金党の旗頭鈴久之を聞き、自ら書肆に抵り、五百金を投じて購ひ帰り、人に向つて其廉を誇つて曰く、揚州の瘦馬一頭の値にも若かず、と。鈴久又花月華壇を買収して文庫を設置するの意ありと云ふ。(鷲尾義道『古島一雄」「解題」 日本経済研究会 昭和24年)

 

 鈴久が鐘紡だけで儲けた額は五百万円と評判された。ついに、久五郎は株式界を完全に制覇した。

 十二月限二十五万株の大受渡は、何の苦もなく終了した。世を挙げて買気一本になった。

 鈴久の明石町の本宅は、元来百坪そこそこの地所だったから、いくら建て増しをしても手狭だった。すると向島花月華壇が売り物に出た。数千坪の庭園と、数寄をこらした建物が幾棟もあった。

 或人がそれを鈴久へ持ち込むと、鈴久は忽ち惚れ込んで年の暮に買取り、引越は春ということにして、大掛りの手入れを始めた。

 同時に、向島では人力車では遠過ぎるからと、牛込船河原町の三島馬車店へ、豪華な二頭立ての馬車を註文した。その馬車の註文が一度に四台だった。鈴久用が一台、夫人用一台、あとの二台は従者用というわけだった。

 輝やかしい明治四十年の正月を迎えた。

村松梢風「黄金街の覇者」 読売新聞社『梢風名勝負物語 原敬血闘史・黄金街の覇者』昭和36年

 

 当時神田小川町に久しく朝鮮版「朱子大全」を持つてゐる書肆があつた。金に困つて売らふとし「朝鮮古版朱子大全値千金」といふ立札を掲げてゐると、鈴久が自分でやつて来て、五百円で買つて行つた。鈴久は花月華壇を買収して文庫を設置する意志があるとも伝へられたが実現せぬうちに没落してしまつた。書物などに没交渉らしい金持が文庫に想ひ居た到るのは、定石の如きものであると見える。(柴田宵曲「成金」青蛙房『明治の話題』昭和37年)

 

 書肆の変る物──善い意味に於いての名物男を挙げるなら、仏書屋の木村屋惣兵衛といふ人も其一人であつた。若年の頃に浄土宗目録を編纂して、坊さん達を驚かせた。また浄瑠璃が上手で、京楽といふ名まで持つて、野崎が得意だつた。大阪から新太夫が東京へやつて来ると、一度は木村屋さんへ挨拶に行つたほどであつた。文行堂の先代なども特色のあつた人で、御成道の全盛時代には、伊与紋が常得意であつた。また例の鈴久に三千円で朝鮮本を売つたので有名な野田と云ふ洋書屋は、狩野博士の御贔屓であるが、子供を負つて女郎買ひに行き、断られたために腹を立てて、懐中の札束を投げつけたといふ奇談さへある。(大庭柯公「書籍談」羊門社『柯公随筆』昭和13年

花月華壇(その2)

「新橋花月お家騒動」

新橋竹川町廿一番地の料理店花月楼事平岡廣高は五六年前東海道鈴川の海岸に風景佳絶の地を相して茶屋を新築し、避暑、避寒の客をひいて大儲をなさんとし、一時は繁昌したりが、つなみの為に家屋を破壊され、大損をなしたりも之れに屈せず、向島寺島村辺は将来繁昌すべき土地なりとの見込をつけ、今度は同村に家屋を新築し、四季の草木を植ゑつけ花月華壇と称し、自分は元日本橋藝者のおとわといふを妾にして、大概は花壇の方に居り、馬車に乗りて往復し、本店の方は女房のお蝶(三七)と番頭某にまかせおくといふ有様なるが、同人が華壇に注ぎ込みし金高は四萬圓許りとなり、最初の中は盛りしも、昨年来の不景気にて大華客の三井家の連中も手をしめてあそびに来らず、春秋の宴会も少なくなり、待合なども客の来ぬところから次第に身代に影響し、借財がかさみしより、女房お蝶は無情にも永年つれそひし平岡がいやになり、去る四月二十三日家出をなし、木挽町辺へ日々四十圓の家賃にて家をかりて之にすみ、平岡に対して離婚咄を申込みたりと。離婚となりし暁には待合を出すか築地の新喜楽の株を買つて料理店を開業せんかと計画し、番頭某もお蝶にしたがひて出て行きしといふからには、予め相談整ひたくらみし事ならんと。又たお蝶の方には横浜弁天通りに居る何原とかいふ男が金主なりとの事にて、出京の度毎に花月楼に逗留し、叶屋清香、森中村の小正、赤坂春本の春子などに馴染み居るものなるが、窃に尻押しをなし居るとの噂さにて、花月楼の方では仲々承知せず、鐘ヶ淵紡績の朝吹英二、三井銀行の理事早川千吉郎の両氏なども仲裁に入りしも、お蝶は是非にも離縁を請求し、平岡は決して離縁にはやらぬと主張し、今に苦情最中なるが、土地の者は平岡に同情を寄せ居りといふ。(明治35年6月21日付「都新聞」。傍点略)

花月華壇

向島花月華壇

〔桜のトン子ルも最早昨日の夢となつて了つたが、香床しき若葉の葉隠れに、後れ咲の姥桜をたづねて、墨陀の堤に暮れ行く者の名残を惜む情深き人の為め、花月華壇を御紹介申す。〕

               花月華壇主人

▲先づ此花壇の起源と申しまするのは、二十七八年日清戦役の後世間の景気がグツと直りました結果、新橋の私共本店も随分繁昌しまして、借金の皆済も出来た上、多少余裕も出来ました、而も其れは私が三十七八歳の時でしたが、是迄国家の為にお尽しになつた方々をお慰め申す様な事を致したいものだと種々考へましたが、左りとて慣れない商売を致すのもつまり失敗の基で御座いますから、それで斯様なことを致す様な訳になつたのです。

▲最も初は料理は致しません。唯花園一方で、自分の楽みがてら、先ア私設の公園とも倶楽部ともいつた様に皆様の御遊び場所と致したのですが、段々貴紳方がお出で下さる様になり、何か食べるものを拵えろと仰しやいますので御座いますけれども、何しろ近所に植半もあり八百松もあるといふのに競争がましくやるのも面白くありませんから、西洋料理をすることにいたしました。

▲西洋料理は初めてからまだ五ヶ年しきヤなりませんし、田舎で自慢の様ですが、帝国ホテルやメトロポール等には決して負けない積りです、其代り市中の並の料理よりは五割方高くなつておりますけれども、それだけ材料が違つて居るのです、コツクは栗田と申しまして、本は鹿鳴館に居て、それから帝国ホテルに開業の時から私が雇ふまで居つたのです。

▲併し御客様も、皆々西洋料理を召上がるといふ訳でなく、中には御嫌いな方も御座いますから、傍ら日本料理もいたします、併それも向島御約束の蜆汁、小鳥の焼鳥位であとは有合の品でお惣菜を拵らへて居ります、日本料理の事に就いては弦齋さんや米僊さんの御書きになつた物を拝見して居るので御座います。

▲お客間には西洋館と日本館、田舎屋造り其外、植木室、馬繋場、馬車置場、厩、湯殿是は可なり念を入れて成るべく清潔にと衛生上の注意をしてある積りです。

▲庭園の方は園遊会を御引受致したり、又外人を宿める室も設けてあります、音楽室にはピアノが備付けてありますし、美術室には種々な油画を備えて置きます。

▲又貸席の方には茶室、其外碁、将棋、歌俳諧謡曲等のお客様の為に遺憾なく準備を整へてあります。

▲又墨堤倶楽部の方には、玉突場、大弓場もありますし、其外貸ボート、釣堀等もあります。

▲それから西洋料理、日本料理だけでは、余り手重くなりますから、酢、汁粉、団子なども彫進致します。

(略) (「月刊食道楽」第二巻第六号 有楽者 明治39年

花月巻(その2)

戸板 正月に結う日本髪というものが、最近では新日本髪なんてことをいっていますね。新日本髪というといかにも最近らしゅうございますけれど、日本髪と洋風の髪との交替期というのはいつごろなんですか。

久保田 洋髪がいちばん一般の日本人にとり入れられた夜会巻じゃないですか。

小絲 あれは鹿鳴館の夜会からきたものですか。

久保田 つまり鏑木清方先生の・・・・・・。

戸板 「築地明石町」。

小絲 夜会巻で、素あわせを着ていますね。うしろにペンキ塗りのサクがあって、それに朝顔がからんでいる。平岡権八郎君のお母さんね。あの人なんかやっぱり当時の花月巻なんて頭をやっていましたね。

戸板 束髪っていうのは・・・・・・二〇三高地とは関係ないんですか。

久保田 もっと前を引っつめにしたものです。当時束髪パンてパンがあった。渦を巻いた・・・・・・。

戸板 いまは渦巻パンていいますね。

(「座談会 江戸・東京 春夏春秋」久保田万太郎、小絲源太郎、安藤鶴夫、司会戸板康二。遠藤元男編『江戸・東京風物詩』至文堂 昭和38年 P217)

新橋花月楼(その5)多賀ふみ

多賀ふみ 湖月楼主人

芝区烏森町四番地(電話新橋四九三番)

嘉永元年戊申二月生

 

 旧仙台藩士の女故ありて肥前唐津藩主小笠原家に奉仕し同藩士多賀家に嫁す其夫右金次新の変藩籍を奉還して帰商し上京して新橋の地に割烹亭花月を創む時に明治元年なり尋いで同七年に至り業務拡張と共に別に文店を烏森に設く当時一帯は荒漠たる原野にして狐狸の徘徊するに任す諸侯池田某の邸園を購ふて鬱蒼たる古池の周囲に亭榭を設け孤穴の称を得しが後邦音相通ずる以て湖月と改む後右金次之を経営し花月は先妻の実家平岡氏に委し更に多賀家二男をして家督を嗣がしむ右金次は元勝安房食客たりし縁故を以て開業の後朝野諸名士の其亭に宴歓するもの多ほく就中年少気鋭の輩慷慨気を負ひ通院して時事を談論するもの奈原原繁の徒屈指す可からず好評嘖嘖として愛飲家の間に喧伝せられ士族者流の事業として好成績を収むることを得たり方今客室を増築し食品材料の精選室内の結構顧客の待遇都下屈指の中に数えらるるに至る偶々夫右金次病を得て逝くやふみ子繊手克く店務の経営に当り時好に投じ画策する所尠からず店員加藤勘七又忠実主家に尽して多年一日の如く補佐の功甚だ大なるものあり

 亡夫との間に二子を挙ぐ長男一(文久三生)は生れて十六歳藩主小笠原家に従ふて幕府を佐け榎本武揚等と函館に走り後帰順して教導団に入り十年の後大阪鎮台より従軍し田原坂に負傷し兵役を免せらるる明治十三年宮内省主馬寮に出仕し殊遇を享く旧幕臣根村氏の女ミナ女(文久三生)を娶り子あり太郎(明一七生)といふ

 ふみ子性敏慧にして頗る経営の才に富む一子宮闕に侍するの故を以て自から店務を理し矍鑠として衰へず庭中の古池幾百年の星霜を経蒼然として苔鮮益々青く闔家の繁栄を語りて余あり(原田道寛編『大正名家録』二六社編纂局 大正4年

 

東京市中音楽隊

(略)明治二十三年頃は、大分に銀座も賑って来ましたが、竹川町の花月が、いろいろ変化した家で、あそこの引札が振っていました。
秋涼朝夕に相催し御宴会の時節と相成此際弊楼は(花月楼といっていました)一層大勉強仕候御多勢様の御宴会は左の定価にて御引受仕候料理の精進は今更御吹聴仕る迄もなく電気の光(電気燈はまだ珍しいンで)西洋音楽の吹奏御余興も最も長きこと奉存候(花月には西洋音楽隊がありました)殊に今回新設の電話機(電話も珍しい呼物なんで)備へも置き候間遠近の御懇談も杯盤の間に早速相弁じ可候間不相変御用仰付被下度此段江湖清賓に謹告仕候也
会費は金一円宛にて御料理酒付二十人様以上御宴会余興として御会食中絶えず奏楽仕候

                  京橋しんばし竹川町

                    花 月 楼

 京橋しんばし竹川町は御叮嚀だ。平岡という仁はいろンなこと企図だ男で、料理屋の癖に、「砂壁紙」を売弘めてゐました。根岸砂で紙をこしらへ、座敷へ張ると真物の壁とチットも違はないといふのが自慢だツたので・・・・・・、(略)。(篠田鑛三『銀座百話』岡倉書房 昭和12年 P33-34)

 

 尾張町裏には、松本楼に、福恵美寿といふ料亭があつた。又竹川町裏には、花月楼があり、而も、花月楼では、その頃、慥か、砂入り紙の壁紙をやつきになつて売り出してゐた真最中だと思ふが、兎に角、この家の主人公は、時々変つたことをやつたものだ。(石角春之介『銀座解剖図 第一編 銀座変遷史』堀之内出版社 昭和9年 P225-226

 

 最初の民間館吹奏楽団は東京市中音楽会である。明治十九年十一月、海軍軍楽隊出身者の加川力ほか五名が新橋花月割烹店主平岡広高の財的援助によってこれを設立し、新聞広告による百二名の応募者中から二十六名を選出し生徒として入会せしめ、事務所を愛宕下の薬師寺に、練習所を下渋谷の某禅宗寺院に置き、横浜の某ホテルにチャリネ曲馬団や外国汽船の楽士が酒代のカタに置いて行った楽器を安く手に入れて、楽器の数もそろわぬながら練習を始めた。しかし当時の欧化思想から、楽長はどうしても西洋人でないと都合がわるい。そこでチャリネ曲馬団の楽士ジョージが横浜に居残っていたのを月給八十円、六ヵ月契約で雇い入れたが、この男、コルネットは達者に吹くものの譜が読めないので居たたまれず、一ヵ月ばかりで逃げ出したので、あとのはそのままで稽古をつづけ、半年の後ようやく行進曲・ポルカ・円舞曲など十五曲ほどできるようになって、そこでまだ生徒を十八人募集し、明治二十年五月開業を発表した。招聘はたちまちあったが楽器が不足のため応じられない。そのうち上海へ頼んであった楽器新旧二十七個が同時モートリー商会から着荷したので、初めて出張演奏をやった。それは上州桐生の某製紙会社の開業式。加川が指揮者で総勢三十二人。旅費宿泊費は依頼者負担で謝礼は六百円という当時としては大金であった。

 出張依頼は意外に多かった。園遊会・運動会・開業式、寧日なしの演奏であった。そこでまた西洋人の楽長がほしくなって、横浜在泊の米国軍艦マナカッシー号乗組のリゼットというイタリア人の信号兵を月給百二十円で雇い入れ教授させた。そのうちに横浜のグランド・ホテルから連続的に演奏を頼まれたので、リゼットは加川と生徒たちとつれて総勢十六人横浜に出張所を設けてその方に詰め、残余の者は東京にいて毎日のように出張演奏をやった。東京市中音楽隊はこうして発展し、明治二十一年には渋沢栄一を社長とする資本金一万円の会社になった。株主は渋沢栄一・平岡広高ほか二、三名である。(堀内敬三『音楽明治百年史』明治編「一九 市中音楽隊おこる」音楽之友社 昭和43年)