花月楼女将(その2)

 「花月」の女将は、中之町(今の芭蕉庵の家)の印判屋、河野元介の娘で、附属小学校に通ってる頃から、その美貌と才気が評判になってた。殊に舞が上手で、妹の「お花」(多分)さんとの合舞は、エライ人気で、河野の姉妹が演るというと、どこに舞浚(温習会)でも大入満員だった、とよく聞かされたものだった。

 明治二十六年の中之町の大火事が、躓きの始まりで、する事なす事思うに任せず、水晶彫りの名人と言われた河野元介も、夜逃げ同様の姿で、岡山を去って行かねばならなかった。例によって、「芸が身を助ける不仕合せ」から、河野の「お静」さんも、煉瓦地から「静香」と名乗って現われたのである。美しいばかりか若いのに似合わず「口上手」で、まるで「智慧の凝固」のようだ、などと、店出しの日から高評サクサクの滑りだしだった。

 その内、新橋随一の宴会場だった「花月」の経営が、どうした事かうまくゆかないので、検番の幹部連中も、其の復活に腐心して最中、誰言うともなしに、「静香さんなら、大丈夫」という動議が出されて衆議一決、否応なしに「花月」の女将に推薦され、平岡夫人に納まることとなった。

 その後の、お静さんの働きは、期待を裏切るどころか、予期以上の成功を見せ、鶴見の「花月園」にまで発展したものである。かつて、其の花月園に遊んだ時、中央に在った「花月大明神」の鳥居と玉垣に、「岡山中之町」と刻んだ文字を発見し、よく見ると糸屋の伊藤佐太郎君や舶来店の佐藤喜平君などの、幼な馴染の顔触れから、同窓同級の西尾元太郎君、等々、思い出の名前がならんでるのには目を瞠った。遉は、名代の花月の女将、昔を忘れず、是等の人達と交際ってたか・・・・・・豪い、と感心させられたことがある。(『続おかやま風土記』岡長平「女はすべて美人なり」日本文教出版 昭和32年