花月楼女将(その3)

平岡静子(ひらおか・しずこ) 事業家  1876(明治9)年3月~不詳

 花月園を支えて斬新なセンス

 花月園競輪場のある横浜鶴見の丘陵一帯には、かつて、東洋一を誇るテーマパークがあった。経営は新橋で料亭花月楼を営む平岡広高。静子はその妻である。

 平岡静子の出生は不明だが、「もとラシャメンで、横浜の自転車芸者」(『銀座の米田屋洋服店』)だったとも、横浜尾上町の料亭富貴楼のお倉に仕込まれた芸者だったとも言われる。新橋の売れっ子芸者で鳴らしていたとき広高の後妻に迎えられ、傾きかけていた花月楼は、「お座敷に出ると芸者が手持ち無沙汰になるくらい、客あしらいの上手な女将」(前掲書)の力量で持ち直した。

 夫の広高は当時建設中の東京駅舎内のレストランの経営に着目。一九一二(明治四五)年五月から五か月間、西洋料理の視察のため静子同伴で、ロシア、イギリス、フランスなどヨーロッパの七か国をまわった。パリでは与謝野鉄幹・晶子夫妻、広高の息子・権八郎の絵描き仲間らと出会い、いっしょに食事をしている。

 この旅行で、広高はパリの子ども遊園地に魅了され、帰国後、花月園開園に向けて奔走する。一方、静子はフランスで化粧法と化粧品の製造を学び、帰国するとただちに「仏国化粧料洗粉」を製造、新橋平岡花月堂の名で発売した。「洋行帰りの女将」の評判は新聞にも取りあげられ、自ら広告塔になって宣伝に努めた。

 鶴見花月園は一四(大正三)年五月開園。敷地は東福寺の境内地七万坪。遊園施設や観覧物の多くは欧風の斬新な機器が取り入れられた。園内には動物園、数千人が入る野外劇場、スワンボートを浮かべた弁天池、ホテル、貸し別荘が造られた。また二〇年には日本で最初の本格的な営業ダンスホールを開き、その舞踏教師としてロシアのバレリーナエリアナ・パヴロバと妹のナデジタを迎えるなど静子のアイデアとセンスが随所に光り、新しもの好きの芸術家、作家などがこぞって来園した。

 お伽話や童話の舞踏劇を取り込んだ花月園少女歌劇は評判で、子どもたちのあこがれの的だった。園内の児童絵画展に並べる海外の子どもたちの作品収集のため静子は数回にわたって渡欧。来園する外国の要人の通訳や案内役も買って出て、その評判も上々だった。化粧品と着こなし、髪形、自ら考案した小物を紹介した『上品でいきな化粧の秘訣』を出版し、「おしゃれ教室」も園内で開催している。だが、開園一五年、結婚二五周年を迎える前年ころに離婚。二九(昭和四)年、東京赤坂の溜池にダンスホール・フロリダを開業するが、そこもほどなく手放し、その後の消息は詳らかでない。(山辺恵巳子) (江刺昭子+史の会編著『時代を拓いた女たち 第Ⅱ集 かながわの111人』神奈川新聞社 2011年)