鶴見花月園

平岡廣高氏

    鶴見町

 曰く絶対に株式或は合資にせず曰く決して之れを子孫に継承せしめず曰く挙げて民衆の共有遊園地たらしむ此三大信条を厳守して死して已むの勇気を鼓しつゝ日々二百有余の従業員と共に活動しつゝある人こそ鶴見の花月園花月園の鶴見かと謳はるゝ花月園得甫平岡廣高氏とす氏は明治四五年其経営する東京随一の旗亭花月を令息権八郎氏に譲り夫人静子と欧米漫遊の途に上り各国を歴遊する中偶々仏国巴里の郊外に於て児童を主とする遊園地を観て心大に動き我国にも創設の必要を痛感し帰来早々京浜附近より箱根方面に亙り適当の地を物色中図らず鶴見に着目し総持寺に交渉せるも不調に終り更に人を介して現在の東福寺に交渉の結果同寺の本尊子育観音を世に出すを第一の条件とし三十ヶ年の地上権を獲得し当時草茫々たる山野に始めて鋤を入れ苦心惨憺の結果大正三年五月鶴見花月園命名して児童本位の遊園地の実現を見るに至り爾来星霜を経る事十六年間一意専心努力の苦心空しからず一ヶ年間の入園客数優に二百万を超過するの盛況に達す其間に於ける氏夫妻の辛労は未明に床を蹴つて先ず園内鎮座の大入弁財天に詣し七万坪に余る園内を一巡して朝養を取り八時半事務所に出勤し終日執務の傍ら業務全般に亙つて采配を振ひ日没退出するを例とす精力の絶倫体力の旺盛なる壮者をして後に憧若たらしむるものあり夫人静子女史亦現代女傑の一人たり氏(ママ)が後半生の成功の半ばは静子夫人内助の功に依り且つ益々内助の功に俟つべきもの多き事は疑を容れず夫人の存在は氏に取つて虎に翼と謂ふべし。(『神奈川県紳士録』横浜市誌編纂所 昭和5年