花月華壇(その4)

 向島花月花壇でのこと

 

 向島花月花壇を造ったのは、後に鶴見の花月園を造った平岡広高(私の父の兄)である。何でも新しい事を考える人で、花を造り、馬車で切り花を街へ売りに行ったりした。その当時の日本では今のように過程で花を飾ったりしなかったので失敗したらしい。

 新橋の店は、本妻がやってて、夏場のお客を呼ぶためらしかった。日本料理は父が受け持ちで床の高い日本家屋、私達の家族(父母、兄二人と私)は奥に別に住居があり、広高の二号の池田咲さん、(私の異母兄の)平岡権八郎とその子供の雪さん(私より一歳上で、池田の小母が藁の上から育てた)が住んでいた。

 西洋料理の方は洋館で、ダンスのできる広いホールがあった。台風で隅田川が氾濫した時は庭に水が流れ込み、兄たちはボートを押したり、泳いだりしていた。低い方の家

の人たちは高床の日本家屋の方へ移った。(木村満瀬『昔の音 今の音』展望社 平成11年)