菅野の下で2年5ヶ月の旗手修行を積んだ尾形が独立したのは、明治44年の1月1日である。元旦を期して多賀厩舎に迎えられた。

 この多賀厩舎は目黒にあって、多賀一、平岡広高、多賀半蔵の三兄弟によるHクラブが運営していた。

 長男の一は、宮内省主馬寮に40年にわたってつとめることになる。当時は明治天皇のお召場所の馭者であった。といっても、新橋烏森で「湖月」という一流料亭を経営する資産家である。

 他の二人も同様で、次男の広高は鶴見に「花月園」を、末弟の半蔵は明治座の裏の采女町に「わかな」を持っていた。

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 信心深い多賀夫人のすすめ従って、尾形は藤吉を景造に改名した。昭和23年、国営競馬に改組されて、戸籍名の使用が義務づけられるまで、彼は尾形景造で通した。

 年号の方も明治から大正に改まって、4月の秋競馬のことである。平岡広高が花月園の経営上、資金を必要としていて、持馬のトクホを聯合二哩に使いたいと言い出した。

 そのころの聯合二哩といえば、1着賞金が3000円の大レースで、優勝競争の1・2着でなければ出走権が与えられなかった。

 ちょうどそのとき、トクホは向うゾエを出していて、それほどの競争に仕える状態にはなく尾形は苦慮した。

 トクホはインタグリオーにフェアペギーで、小岩井の産である。明治24年、小野義真、岩崎弥之助男爵、井上勝子爵の共同経営で始まったこの農場は、三人の頭文字を一つずつとって命名されたことで知られているが、その後明治32年に岩崎家の所有するところとなった。

 尾形が三歳のトクホを引き取りに行ったのは大正3年の12月である。

 盛岡駅前の高与旅館に投宿すると、先輩の北郷五郎が、やはり小岩井産の四歳馬ミツイワヰを、引き取りに来ていた。

 平岡のたってのねがいで、聯合二哩への出走に踏み切ったトクホの前に立ちふさがったのが、このミツイワヰである。

 小岩井の馬は一般にやわらかく、四歳の秋か五歳の春でなければ使えない、というのが常識であった。トクホはまだ馬が若く、そのうえに向うゾエのハンデイキャップを抱えている。対照的にミツイワヰの充実ぶりは顕著で、衆目の見るところ、聯合二哩の本命はこれであった。

 ある日のこと、尾形は自分に関する噂を小耳にはさんだ。北郷の師匠である高橋孔照が、尾形を未熟者として批判していたというのである。

 その夜、寝床に入った尾形は、どうにも眠れない。ふとんを蹴って起き上ると、自宅から六、七丁ほどのところにある馬頭観音に向かった。

 持前の反撥心に火がついたのである。こうなったからには、神の力を借りてでも汚名をそそがなければならない。そう考えた尾形は三七、二十一日間の茶断ち、塩断ちを誓って、願をかけた。

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 茶を断つのは、何ほどのこともない。しかし、塩断ちは、人体に影響を及ぼす。十三貫五百あった体重が十二貫二百にまでなった。身を以て塩分の大切さを知った尾形は、戦中、戦後の物資不足の折り、馬のための塩の確保に労を惜しまなかった。

 聯合二哩を1週間後に控えた11月20日、内国産馬1800メートルでミツイワヰを4馬身差の2着に退けて優勝したトクホは、本番の出走権を獲得する。

 その日、満願を迎えた尾形は、さらに茶断ち、塩断ちを続け、馬頭観音詣でをやめない。レース当日まで都合28日間の願かけとなった。

 そして11月27日、トクホはまたミツイワヰを4馬身差の2着に葬って、聯合二哩に優勝したのである。(本田靖春「にっぽん競馬人脈」 中央競馬ピーアール・センター編『日本の騎手』 中央競馬ピーアール・センター 昭和56年)