花月華壇(その3)成金鈴久

 彼れは新橋花月主人が窮状を訴ふるに及ぶや、直ちに向島花月華壇を希望値段の二万円にて買入れ、一万円の手入をなして肥馬軽車を備へ、三十人を一時に為し得るの善美を尽した欧風食堂をも設け、料理人三四人を置き二六時中訪問来者の来り食事するに任せた。(剣介閣「成金元祖鈴久物語(上) 「日本之関門」大正6年10月号 瞬報社出版部)

 

神田小川町の某書肆、久しく朝鮮版朱子大全を蔵す。頃者金に窮し急に之を売らんことを思ひ、店頭に大立札を掲げ、朝鮮古版朱子大全値千金と曰ふ。斯くの如くして待つこと数日、偶々成金党の旗頭鈴久之を聞き、自ら書肆に抵り、五百金を投じて購ひ帰り、人に向つて其廉を誇つて曰く、揚州の瘦馬一頭の値にも若かず、と。鈴久又花月華壇を買収して文庫を設置するの意ありと云ふ。(鷲尾義道『古島一雄」「解題」 日本経済研究会 昭和24年)

 

 鈴久が鐘紡だけで儲けた額は五百万円と評判された。ついに、久五郎は株式界を完全に制覇した。

 十二月限二十五万株の大受渡は、何の苦もなく終了した。世を挙げて買気一本になった。

 鈴久の明石町の本宅は、元来百坪そこそこの地所だったから、いくら建て増しをしても手狭だった。すると向島花月華壇が売り物に出た。数千坪の庭園と、数寄をこらした建物が幾棟もあった。

 或人がそれを鈴久へ持ち込むと、鈴久は忽ち惚れ込んで年の暮に買取り、引越は春ということにして、大掛りの手入れを始めた。

 同時に、向島では人力車では遠過ぎるからと、牛込船河原町の三島馬車店へ、豪華な二頭立ての馬車を註文した。その馬車の註文が一度に四台だった。鈴久用が一台、夫人用一台、あとの二台は従者用というわけだった。

 輝やかしい明治四十年の正月を迎えた。

村松梢風「黄金街の覇者」 読売新聞社『梢風名勝負物語 原敬血闘史・黄金街の覇者』昭和36年

 

 当時神田小川町に久しく朝鮮版「朱子大全」を持つてゐる書肆があつた。金に困つて売らふとし「朝鮮古版朱子大全値千金」といふ立札を掲げてゐると、鈴久が自分でやつて来て、五百円で買つて行つた。鈴久は花月華壇を買収して文庫を設置する意志があるとも伝へられたが実現せぬうちに没落してしまつた。書物などに没交渉らしい金持が文庫に想ひ居た到るのは、定石の如きものであると見える。(柴田宵曲「成金」青蛙房『明治の話題』昭和37年)

 

 書肆の変る物──善い意味に於いての名物男を挙げるなら、仏書屋の木村屋惣兵衛といふ人も其一人であつた。若年の頃に浄土宗目録を編纂して、坊さん達を驚かせた。また浄瑠璃が上手で、京楽といふ名まで持つて、野崎が得意だつた。大阪から新太夫が東京へやつて来ると、一度は木村屋さんへ挨拶に行つたほどであつた。文行堂の先代なども特色のあつた人で、御成道の全盛時代には、伊与紋が常得意であつた。また例の鈴久に三千円で朝鮮本を売つたので有名な野田と云ふ洋書屋は、狩野博士の御贔屓であるが、子供を負つて女郎買ひに行き、断られたために腹を立てて、懐中の札束を投げつけたといふ奇談さへある。(大庭柯公「書籍談」羊門社『柯公随筆』昭和13年