新橋花月楼(その4)平岡得甫とヘベライ先生

  花月園主平岡得甫老とヘベライ先生

 先年物故した一代の奇傑、鶴見花月園主平岡得甫さんが、新橋に紺屋の張場だつた二百余坪の空地を物色して、其処に花月楼(後に都下一流の割烹店)を創設したことは明治二年頃だつた。

 地の利と繫昌を覘つた平岡さんの商略も、天の時運未だ到来せず、家業不振を続けて門前雀羅を張るといふ否運に陥ゐつてしまつた。吉原花街屈指の藝妓のお蝶さんを妻として居たが、とゞの詰まりその愛妻に再び左褄を取らせねばならぬ悲惨な羽目になつて、流石豪放不羈一代の奇傑平岡得甫さんも此の折ばかりは殆ど途方に暮れたといふ。

 『いやもうお恥しい次第で、あの時ほど困つたことは前後にありません。』

 と前置きして、もう七十に近いとは言へ活気に満ちた二十貫の老躯を、先年支那の知人から贈られたといふ支那服に包んで、ゆったりと安楽椅子に靠れながら話頭を進めた。

 『まったく弱りましたヨ。かうなつたら何でも構はないと奇抜な事を編出したんです。つまり「商売往来」にも類がない珍商売を工夫したんです。(其の珍商売は如何にも平岡式で、聞く人の頤を解くに十分であるが、此処に全く関係のない事なので商略する。)

 その珍商売を開業するについてチラシ広告を撒かなくちやならない。その広告の文句を、その頃私のボロ貸家に住んでゐなすつたヘベライ先生といふ人に頼んで書いて貰つたんですが、その文句がとてもうまいもんでした。ヘベライ先生といふとをかしいが、本名は北庭筑波といふ人なんです。』

 予は自分の耳の聞違ひかと思つた。まさか北庭筑波さんが平岡さんの貸家から飛出して来ようとは夢にも想はなかつたからだ。だが正真正銘の北庭筑波さんに相違なかつた。

 『この人を吾々仲間でヘベライ先生と呼んでゐました。それはこの人が和蘭の書物がペラペラ読めたから、誰れ言ふとなくこんな異名をつけてしまつたと云わけです。』

 この一節は北庭さんが杉田玄瑞に蘭学を学んでゐたといふ翁の談話を裏書する大切な史料でもある。

 『ヘベライの北庭さんといふ人は筆も達者で、取分け洒落文を能く書きました。あの時書いて貰つた広告の文句なんかでも中々振つたもんでした。』

 この一節もまた明かに、北庭さんが洒々落々な才人であり、尋常一様の若旦那でなかつたことを証拠立てゝ居る。平岡さんは更に話頭を転じて、

 『さういう風で三度の飯も食ふや食はずで居た頃、丁度宅の勝手口と北庭さんの勝手口が向合になつて、私がきがつかにやうに其の勝手口から宅の台所へ、大根、牛蒡、人参、といつた野菜類や、また袋入の菓子なんぞを、そつと置いてつて呉れるのでした。その優しい親切には涙がこぼれましたねえ。店子が家主に貢ぐなんて滅多にないことです。

 この北庭さんが、なんと呉服町の伊勢屋さんの若旦那だつた。それはずつと後になつて判つて一そう敬服しました。』

 以上が、北庭さんに就いて平岡さんから・・・左様大正十四年であつたと思ふ、『平岡得甫とは何者?』と題して予が筆を執るに際して、偶々聞出した逸話の大要であつて、全く世に隠れたる美談である。

 持てる人が持たぬ人に恵む。これは容易に有り得る。持たぬ店子が持たぬ家主に貢ぐ。これが美談でなくて何であらう。

 百萬の富を一朝に失つて陋巷に住み家名を憚つて身の素性を包む。この点に於ても床しい心根の持ち主であつた。

 短いながら此の一幕は、北庭筑波伝を補綴するに足る好個の資料である。(石處六十二叟「浅沼藤吉翁昔話」 「写真新報」昭和14年5月号 P60-61 写真新報社)