鶴見花月園(その2)

 京浜急行花月園前駅の西側、東海道本線の線路を挟んで小高い山上に、花月園・競輪場が平成22年(2010)まであったが、戦前・戦後直後までこの場所には、子どものための遊園地「花月園」が存在した。

 この遊園地は、平岡廣高によって大正3年(1914)5月に開園した。平岡は、会津からの落ち武者や同志関係者の隠れ家として創業した東京・新橋の老舗料亭「花月楼」の経営者だった。「花月楼」は西郷隆盛木戸孝允大久保利通伊藤博文らをはじめとする明治維新関係者や政治家、渋沢栄一(第一銀行他企業多数)、大倉喜八郎(帝国ホテル)、浅野総一郎浅野セメント)や平岡熙(日本最初の民間鉄道車両工場)などの実業家などが常連客として利用していたという。

 遊園地は一時大変賑わったものの、関東大震災や昭和初期の不況により、その経営は京浜電気鉄道大日本麦酒との合同経営に移り、戦時中一時休園し、戦後昭和21年(1946)に復活したが、昭和25年(1950)には競輪場が建設されることになり、惜しくも閉園した。

 園内は公園をはじめ、サークリングウエーブや豆汽車など、多くの設備が置かれ、チルドレンパークとして大変賑わったという。

 花月園の開園者である平岡廣高はその若き頃、柳橋や洲崎、日本橋を遊び廻る道楽者であったが、料亭の若旦那として新橋の老舗「花月楼」の経営には熱心で、その甲斐あってか、店は大変繫盛したという。

 平岡が50歳の頃、その当時は工事中だった大正3年(1914)開業の東京駅に食堂の出店を計画し、当時の逓信大臣である後藤新平(当時の国鉄逓信省の管轄であった)に依頼したが、「日本料理だけでは・・・・・・」と言われたので、欧州へ西洋料理見学の旅に出かけた。その際、たまたま知人の画家に連れられて行ったパリ郊外の子ども遊園地を見て、そこでの設備に感激、日本国内で子どものための遊園地を開こうと思い立ったという。

 遊園地の適地を探し、全国を物色してたどりついたのが鶴見の地で、古来より子育て観音として信仰を集めていた、東福寺の地所であった。東福寺は、平安時代後期、堀河天皇が勅使を送って皇子の誕生を祈願し、のちの鳥羽天皇となる皇子を授かったとされる寺である。

 「子どもの遊園地と子育観音とは引き合わせが良い」と、この東福寺の住職を説得して2万5000坪(8万2500㎡)の土地を借り受け、同地に「花月園」が誕生することとなった。

 人気も出て繁盛し、敷地は広がっていったが、子どもが好きな平岡は、利益のほとんどを常に新しい設備を必要とする遊園地のために投資を続けたことと、関東大震災、他の遊園地の開園や不況により遊園地経営が困難となり、昭和7年(1952)12月、景品電気鉄道と大日本麦酒による共同経営会社に、やむなくその権利を渡すこととなったのである。

 平岡は園主の座から退いた後、園内の釈迦と観音堂の堂守として信仰に生き、また児童の善導に尽くして昭和9年(1934)1月、花月園内和楽荘にて75年の生涯を閉じた。(宮田憲誠『京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線』JTBパブリッシング 2015年)