新橋花月楼(その3)

6 一日一室五十銭

 芸者は素足、殊に手と足と歯は一生懸命自慢にして磨いたから、すきとおるように綺麗だった。寒中なんか手も足もまっ紅になって、それがまた殊の外に美しかったものです。姿恰好、先ず歌麿の錦絵と思えば大差なく、みんなお召を着ていました。田川のお今、関東やの小鉄、後に長谷川好道大将の奥様になった田毎のお愛、児玉愛輔さんにかたづいたとん子、一粒よりの美しいねえさんばかり、私が新橋の花月をやった頃(明治八年)、新橋(煉瓦地)には十四、五人よりいませんでした。大抵はいなせな仕事師か何かがいろで、本当の芸ばかりで売ったものです。

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 玉代が一時間一朱(六銭二厘五毛)、料理が今の十五円位の会席でまず一分(二十五銭)、芸者は江戸時代の作法そのままで、お座敷は大体にぎやかだった。大根河岸の三州、魚河岸の尾張屋虎吉、日本橋の下駄屋伊勢芳、両国のかんざしや鉄屋長兵衛なんて通人がいて粋な遊びもしたし、花柳界や芝居にはすばらしく顔がききました。武家上りには何処か野暮ったいものでしたが、御用金がふんだんに使えるので金をまくようにした時代でもあります。

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 寺田屋騒動の奈良原さ(繁)さんが先ず煉瓦地方面では随一の遊び手、「盃をやろう」といって差出されると、酒をついだ底に二分金がちらちらしていて酒はのんでお金は懐紙を出して頂くという寸法ですが、私の母などは武家出ですから作法がわかならく、このお金を酒ごと飲んでしまったなんて話があります。この奈良原さんが私のお守りをしていた下女のお滝という十七、八になる色の真黒い子が気に入って、とうとう私の家から貰って行きました。豪傑張りの如何にも武士らしい方で評判だったものです。例の川上貞奴なんかもこの人が七十過ぎてからの寵愛でした。

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 花月の今の竹川町のところは、紺屋があって土蔵が二棟、その二百坪ばかりの張場へかやぶきやとこたんぶき(柿ぶき)の小屋敷を点々と建てはじめたもので、その土地や建物は百五十円で買ったのだそうです。女中は佐幕武士の奥様方の仮りの姿、出前持ちは糸びん奴に結ってはいても、みんな相当の武家ばかりだったのです。はじめ私の実父が両国で佐々木屋という船宿をして、会津から函館方面への脱走武士の奥様方をかくまい、一方武器の密輸送をした。それを誤摩化すためにこの料理屋をはじめたもので、父などは晩年まで魚河岸へ買い出しに行っても「殿様、殿様」で通ったものでした。

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 西郷隆盛なんかもこの事を知ってひどく同情したといいます。官軍の人たちが豪奢な遊びをするのに、自分たちが糸びん奴の姿が如何にも残念だといって、山下門の暗やみで花月の出前持ちがその客を斬り殺したなどという事件が私の子供の頃にはままありました。

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 私が父から花月を譲られてから、道楽の限りをつくして店も何も滅茶苦茶、その日の米にも困る様になった事がある。その時に隣家にいたのが今の伊井蓉峰の父北庭筑波という傑物、よく裏から大根だの秋刀魚だのをそっと持って来てくれました。呉服町一円がその邸宅と店舗だったという油問屋の倅ですが、家を弟に譲って浅草の瓢箪池の近くで写真屋をやったりした。綽名を「ヘベライ」といった並大抵の人ではなかった。これが私が大きな花月の中につくねんと座って困り切っているのを見て、いわば貸間座敷というような日本はじめての商売を教えてくれた。

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 古つづら二個と鍋二枚を売った金で手拭を染め、一日一室五十銭で誰にでも貸す。丁稚おさんどんの出合などにもよろしいと珍妙な文句を書いて広告。はじめの十五日間ばかりは一人も来なかったが、おしまいには大変やって来て、十五の部屋が毎日満員だったのです。死んだ大隈侯、朝吹英二さん、今の犬養木堂さんなんかが私のために、左づまをとっていたお蝶という女房を請け出して添わせてくれたのはこの頃の話でした。

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 西南戦争で官軍が勝って来てからは、いわば勝いくさの横暴で、ずいぶん芸者なども勝手にし、そのため風紀もぐっと乱れ、人数も足りないので名古屋だの大阪から盛んに輸入した。ここから芸者の江戸味が段ゝうせて、寸法のあわない足袋をはいてお座敷へ出たり、島田へラッコの襟巻をして歩くような今の芸者を生むようになったのです。(新橋花月、平岡得甫老談) (東京日日新聞社会部編「五十年前」『戊辰物語』岩波文庫 P122-126)