新橋花月楼(その2)

 私の家の斜め前に、黒板塀がながくつづく料理屋があった。その塀に小さな木戸があった、幼い私は一日に何度かは、その木戸を出入りしていた。玄関は銀座通りから二つ目を曲がったところにあって、いつも敷石が濡れて光り、竹の植込みが風に揺れていた。客用の玄関とは別に入り口があり、そこには綺麗に着かざった芸妓たちの人力車が着くようになっていた。

 ここは、私の祖父の家、明治開化のころの創業で、市中でも指おりの料理屋、新ばしの花月楼である。祖父は私の生れる数ヶ月前に亡くなり、祖母もずっと以前に亡くなっていたので、父の次兄が経営にあたっていたのだが、私の父が末っ子として生れた家だったので、父にとっては何時までも“わが家”だったらしい。そこはまた、ちいさな私にとっても格好の遊び場だった。女中たちの誰かがいつも相手をしてくれた。大きな座敷、小さな部屋を遠慮なくころげ廻って遊んだ。くわしいことは、別の話題で語ることにするが、一つ付け加えると、私の家は大正から昭和とつづいて、新橋の検番になっていた。また、花月の跡は大きなキャバレーに変身していたが、先日通りかかると、私の家の跡には、松竹梅の酒蔵という大きな看板が掛かっていたし、花月のところはキャバレーの姿はなく、大きなビルが建ちかけていた。(多賀義勝『大正の銀座赤坂』P14-15  青蛙房 平成25年新装版)