新橋花月楼

 待合といふものはいかなる物にやおのれは知らねど、只もじの表よりみれば、かり初に人を待ちあはすのみの事なめりとみるに、あやしう唄女など呼上て酒打のみ燈あかくこゑひくゝ夜更るまで打興ずめり、家あるじは大方女子にて二人三人みめよき酌女もみゆ、家は艶にすぎたるはいるのさま、高どのにはいよ簾かけ渡してすゞしの聲ねこゝろにくし、家名は行燈にかきたるものあり額打たるもあり、ときはと呼あり梅のや竹のや、湖月はからす森に名高く花月は裏町にあり、あるはいが嵐の奥座敷に風をいとひ朧のはなれに落月の狼藉をみるなど、大方世の紳士紳商などいふ人のかくれ遊びの場所なめり、少なくも一町に一ケ所はかならずあり、多き所には軒を並べて仕出しの岡持常に行かふを見る、世には数まんこがねありてかかゝる用なき人のいとのどかなるよを過すらむ、孟宗は竹をえかねて雪中にこゞえ孫康は雪少なうして窓の光くらきをなげくに、地租軽減をとなふる有志家豫算査定に熱中するの代議士かゝる遊びに費すこがねのをしからずとは不學不識のものゝしれがたき事にこそ。(樋口一葉「蓬生日記」明治24年10月4日)