花月巻(その1)坊っちゃん

 向うの方で漢学のおさんが歯のない口をめて、そりゃ聞えません伝兵衛さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事にしたが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物をまえて近頃こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。(夏目漱石坊っちゃん』)

 

注:先の「金や太鼓でね――」に並んで「断片」に書きとめられている。「花月巻」は新橋の料理店「花月」のおかみが創始した廂髪の新しい髪形。(岩波文庫坊っちゃん』注釈。平岡敏夫

 

 明治三十八年前後の漱石先生のノートの中には「藝者」といふ項目を掲げて、客と藝者との短い対話を書きとめたらしいものが二箇所あり、別に「花月白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車ひくはヴイオリン、半可の英語でぺらぺらと、I am glad to see you」といふのと、「畳たゝいてねえ、くどい様だがようききやしやんせ、悋気でいふのぢやなけれども、一人でさしたる傘ならば、片袖濡れよう筈がない」といふのと、「鉦や太鼓でねエ迷子の迷子の三太郎と、どんどこどんのちやんちきりん、叩いて廻つて逢はれるものならば、わたしなんぞも鉦や太鼓でどんどこどんのちやんちききりんと叩いて廻つて逢ひたい人がある」といふのと三つの歌が書きとめられている。これは恐らく寅彦に連れられて行つた、三河屋での採集だったのに相違ない。しかも「花月巻」と「鉦や太鼓」との二つは、明治三十九年四月に発表された『坊つちゃん』の中の、花晨亭におけるうらなりの送別会に藝者が出て来て歌ふ歌になつてゐるのである。(小宮豊隆「寅彦と羽子板」 角川書店『人のこと自分のこと』昭和30年 P59-60)

 

 「それから」が出来たから一部此手紙と同便で送る。もう少しすると又小説を書き出さなければならない。又いそがしくなる。君がゐなくなつたので理科大学の穴倉生活抔が書けなくなつた。慧星の知つたか振りの議論も出来ない。又赤坂の三河屋を思ひ出した。あの藝者はどうなつたらう。我々が変化する如く彼女も変るだらう。

(以下略)「明治43年1月19日付寺田寅彦漱石書簡」