東京市中音楽隊

(略)明治二十三年頃は、大分に銀座も賑って来ましたが、竹川町の花月が、いろいろ変化した家で、あそこの引札が振っていました。
秋涼朝夕に相催し御宴会の時節と相成此際弊楼は(花月楼といっていました)一層大勉強仕候御多勢様の御宴会は左の定価にて御引受仕候料理の精進は今更御吹聴仕る迄もなく電気の光(電気燈はまだ珍しいンで)西洋音楽の吹奏御余興も最も長きこと奉存候(花月には西洋音楽隊がありました)殊に今回新設の電話機(電話も珍しい呼物なんで)備へも置き候間遠近の御懇談も杯盤の間に早速相弁じ可候間不相変御用仰付被下度此段江湖清賓に謹告仕候也
会費は金一円宛にて御料理酒付二十人様以上御宴会余興として御会食中絶えず奏楽仕候

                  京橋しんばし竹川町

                    花 月 楼

 京橋しんばし竹川町は御叮嚀だ。平岡という仁はいろンなこと企図だ男で、料理屋の癖に、「砂壁紙」を売弘めてゐました。根岸砂で紙をこしらへ、座敷へ張ると真物の壁とチットも違はないといふのが自慢だツたので・・・・・・、(略)。(篠田鑛三『銀座百話』岡倉書房 昭和12年 P33-34)

 

 尾張町裏には、松本楼に、福恵美寿といふ料亭があつた。又竹川町裏には、花月楼があり、而も、花月楼では、その頃、慥か、砂入り紙の壁紙をやつきになつて売り出してゐた真最中だと思ふが、兎に角、この家の主人公は、時々変つたことをやつたものだ。(石角春之介『銀座解剖図 第一編 銀座変遷史』堀之内出版社 昭和9年 P225-226

 

 最初の民間館吹奏楽団は東京市中音楽会である。明治十九年十一月、海軍軍楽隊出身者の加川力ほか五名が新橋花月割烹店主平岡広高の財的援助によってこれを設立し、新聞広告による百二名の応募者中から二十六名を選出し生徒として入会せしめ、事務所を愛宕下の薬師寺に、練習所を下渋谷の某禅宗寺院に置き、横浜の某ホテルにチャリネ曲馬団や外国汽船の楽士が酒代のカタに置いて行った楽器を安く手に入れて、楽器の数もそろわぬながら練習を始めた。しかし当時の欧化思想から、楽長はどうしても西洋人でないと都合がわるい。そこでチャリネ曲馬団の楽士ジョージが横浜に居残っていたのを月給八十円、六ヵ月契約で雇い入れたが、この男、コルネットは達者に吹くものの譜が読めないので居たたまれず、一ヵ月ばかりで逃げ出したので、あとのはそのままで稽古をつづけ、半年の後ようやく行進曲・ポルカ・円舞曲など十五曲ほどできるようになって、そこでまだ生徒を十八人募集し、明治二十年五月開業を発表した。招聘はたちまちあったが楽器が不足のため応じられない。そのうち上海へ頼んであった楽器新旧二十七個が同時モートリー商会から着荷したので、初めて出張演奏をやった。それは上州桐生の某製紙会社の開業式。加川が指揮者で総勢三十二人。旅費宿泊費は依頼者負担で謝礼は六百円という当時としては大金であった。

 出張依頼は意外に多かった。園遊会・運動会・開業式、寧日なしの演奏であった。そこでまた西洋人の楽長がほしくなって、横浜在泊の米国軍艦マナカッシー号乗組のリゼットというイタリア人の信号兵を月給百二十円で雇い入れ教授させた。そのうちに横浜のグランド・ホテルから連続的に演奏を頼まれたので、リゼットは加川と生徒たちとつれて総勢十六人横浜に出張所を設けてその方に詰め、残余の者は東京にいて毎日のように出張演奏をやった。東京市中音楽隊はこうして発展し、明治二十一年には渋沢栄一を社長とする資本金一万円の会社になった。株主は渋沢栄一・平岡広高ほか二、三名である。(堀内敬三『音楽明治百年史』明治編「一九 市中音楽隊おこる」音楽之友社 昭和43年)