花月華壇(その2)

「新橋花月お家騒動」

新橋竹川町廿一番地の料理店花月楼事平岡廣高は五六年前東海道鈴川の海岸に風景佳絶の地を相して茶屋を新築し、避暑、避寒の客をひいて大儲をなさんとし、一時は繁昌したりが、つなみの為に家屋を破壊され、大損をなしたりも之れに屈せず、向島寺島村辺は将来繁昌すべき土地なりとの見込をつけ、今度は同村に家屋を新築し、四季の草木を植ゑつけ花月華壇と称し、自分は元日本橋藝者のおとわといふを妾にして、大概は花壇の方に居り、馬車に乗りて往復し、本店の方は女房のお蝶(三七)と番頭某にまかせおくといふ有様なるが、同人が華壇に注ぎ込みし金高は四萬圓許りとなり、最初の中は盛りしも、昨年来の不景気にて大華客の三井家の連中も手をしめてあそびに来らず、春秋の宴会も少なくなり、待合なども客の来ぬところから次第に身代に影響し、借財がかさみしより、女房お蝶は無情にも永年つれそひし平岡がいやになり、去る四月二十三日家出をなし、木挽町辺へ日々四十圓の家賃にて家をかりて之にすみ、平岡に対して離婚咄を申込みたりと。離婚となりし暁には待合を出すか築地の新喜楽の株を買つて料理店を開業せんかと計画し、番頭某もお蝶にしたがひて出て行きしといふからには、予め相談整ひたくらみし事ならんと。又たお蝶の方には横浜弁天通りに居る何原とかいふ男が金主なりとの事にて、出京の度毎に花月楼に逗留し、叶屋清香、森中村の小正、赤坂春本の春子などに馴染み居るものなるが、窃に尻押しをなし居るとの噂さにて、花月楼の方では仲々承知せず、鐘ヶ淵紡績の朝吹英二、三井銀行の理事早川千吉郎の両氏なども仲裁に入りしも、お蝶は是非にも離縁を請求し、平岡は決して離縁にはやらぬと主張し、今に苦情最中なるが、土地の者は平岡に同情を寄せ居りといふ。(明治35年6月21日付「都新聞」。傍点略)