新橋花月楼(その5)多賀ふみ

多賀ふみ 湖月楼主人

芝区烏森町四番地(電話新橋四九三番)

嘉永元年戊申二月生

 

 旧仙台藩士の女故ありて肥前唐津藩主小笠原家に奉仕し同藩士多賀家に嫁す其夫右金次新の変藩籍を奉還して帰商し上京して新橋の地に割烹亭花月を創む時に明治元年なり尋いで同七年に至り業務拡張と共に別に文店を烏森に設く当時一帯は荒漠たる原野にして狐狸の徘徊するに任す諸侯池田某の邸園を購ふて鬱蒼たる古池の周囲に亭榭を設け孤穴の称を得しが後邦音相通ずる以て湖月と改む後右金次之を経営し花月は先妻の実家平岡氏に委し更に多賀家二男をして家督を嗣がしむ右金次は元勝安房食客たりし縁故を以て開業の後朝野諸名士の其亭に宴歓するもの多ほく就中年少気鋭の輩慷慨気を負ひ通院して時事を談論するもの奈原原繁の徒屈指す可からず好評嘖嘖として愛飲家の間に喧伝せられ士族者流の事業として好成績を収むることを得たり方今客室を増築し食品材料の精選室内の結構顧客の待遇都下屈指の中に数えらるるに至る偶々夫右金次病を得て逝くやふみ子繊手克く店務の経営に当り時好に投じ画策する所尠からず店員加藤勘七又忠実主家に尽して多年一日の如く補佐の功甚だ大なるものあり

 亡夫との間に二子を挙ぐ長男一(文久三生)は生れて十六歳藩主小笠原家に従ふて幕府を佐け榎本武揚等と函館に走り後帰順して教導団に入り十年の後大阪鎮台より従軍し田原坂に負傷し兵役を免せらるる明治十三年宮内省主馬寮に出仕し殊遇を享く旧幕臣根村氏の女ミナ女(文久三生)を娶り子あり太郎(明一七生)といふ

 ふみ子性敏慧にして頗る経営の才に富む一子宮闕に侍するの故を以て自から店務を理し矍鑠として衰へず庭中の古池幾百年の星霜を経蒼然として苔鮮益々青く闔家の繁栄を語りて余あり(原田道寛編『大正名家録』二六社編纂局 大正4年